黒崎祇園山笠とは
令和7年3月
「国選択無形民俗文化財」に指定
起源は400年以上前に遡るとされ、県内でも由緒ある祇園祭礼の一つ。
北九州市の三大夏祭りの一つとして多くの人に親しまれている。
黒崎地区の8つの山からなる黒崎祇園山笠は、
大太鼓、小太鼓、鉦、ホラ貝によって独特の勇ましい調子を奏でる。
また、神幸の前夜に開催される競演会では、
『喧嘩山笠』とも呼ばれる激しい曳き山の姿をみることができ、
その美しさと迫力は多くの人々を魅了する。
昭和43年2月『黒崎祇園行事 附 関係文書・笹山笠・太鼓』として
福岡県の無形文化財(現 無形民俗文化財)に指定され、
令和7年3月には『記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財』として国からの選択を受けた。
黒崎祇園山笠の由来
黒崎祇園山笠は、伝統・勇壮・華麗な祭りである。
黒崎祇園の発祥を記録した最古の資料は、八幡祇園原町にあった八束神社(現・仲宿神社に合併)の社伝で、
円融天皇天禄元年(970年)の夏に初めて祇園祭を行ったと伝えられている。
祇園会は、疫病の神を鎮め、怨霊を慰めるための御霊会(悪疫退散・無病息災・五穀豊穣を願う礼念会)で、
型としては衣代笹山笠であった。
元久2年(1205年)には花尾城主麻生氏が祇園社の祭儀を行い、
その後、慶長5年(1600年)に黒田長政が黒崎城主井上周防之房に命じ、
岡田・春日両宮に須賀大神を奉納させた。この祭礼として町民山笠を建設した。
これが黒崎祇園の起源といわれ、現在は岡田神社
・春日神社・
一宮神社の祇園祭として受け継がれている。
黒崎城主井上周防之房は祭礼に勇ましさを加えるため関ヶ原の戦いの経験を活かし、
陣太鼓の調子を取り入れ、これに鉦やホラ貝も組み込んだという。
かきぶりの勇壮さは、この囃子に根源するとされている。
小太鼓・大太鼓・鉦の三拍子そろった打ち方の「序・破・急」は、
据山・練山・追山の三態を指揮するもので、かき手の躍動感を高める。
いつ頃このリズムが取り入れられたかは定かでないが、他に類を見ない名調子である。
かつて黒崎祇園は「喧嘩山笠」とも呼ばれていたが、それは威勢のいい囃子のためではない。
ある古老によれば、熊手と藤田の出身地が異なる。
熊手は山寺、藤田は上の銘からの移住者であり、それによる排他根性が原因だという。
現在「喧嘩山笠」の異名は、山の勇壮さにとって代わり今もなお受け継がれている。
笹山笠
笹山笠は黒崎祇園の原型とも伝われ、明治39年以前までは山笠はすべてこの笹山笠だけであった。
お潮井取りの当日に立てられ継承されているが地区により若干飾り方に違いがある。
山笠台の中央部に笹を2本立て注縄でつなぎ、ご神体の意味で須賀神社のお札の前に鏡を取り付け、その周りを杉葉で勾欄にする。
勾欄は神社の欄干を意味し、神城を象徴する勾欄の四隅には布で作った梵天をぶら下げる。
梵天は神の座を示すもの、欲界の上にあるもののよし、つまり勾欄から上は神の座という事である。
山笠台の周囲は幕で飾り両脇に大きな提灯を付け、時には連隊旗を飾ったり、花木を付けた例もある。
当時、笹山に用いられる幕は、各区費用をかけこったもので船町は「船町」の図を四囲に刺繍し「船」の字を配したものであり
同様に田町は田の字を図案化し藤田は藤の字を形どった。一方熊手は熊の字に弓を配したものを刺繍していた。
台上の飾りも各区異なり、船町は船扇を四面に各面四個宛並べ藤田、田町は檐を並べそれに各自区のマークを入れており、
熊手は横に国旗をはり弓を配していた。
現在でも多少変化はしたものの、かき棒をかずらで縛り笹を立てただけのシンプルな山笠は、
その伝統を今に受け継いでいる。
この笹山笠は昭和43年県無形文化財指定、昭和51年県指定無形民俗文化財に指定された。
祇園太鼓
お囃子の型は、黒崎城主(現、城山)黒田長政公の長臣井上周防之房が(1605年頃)黒田藩の陣太鼓を取り入れさせたとも、天文年間(1532〜1555年)中頃祇園宮大宮司高見権現大宮司、麻生氏軍師波多野長正が麻生氏陣太鼓を基として祇園太鼓が作られたとも云われている。型は現在とほぼ同様の大太鼓、小太鼓、鉦、ホラ貝にて構成されていたと思われる。
黒崎祇園山笠の歴史
黒崎祇園山笠400年祭
チャイニーズニューイヤー
ナイトパレード
朝鮮通信使平和行列
日韓国交正常化60周年記念